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浄土宗のおしえ

❀阿弥陀仏の救い


(浄土宗の教え・ひたすらにお念仏)


浄土宗は阿弥陀仏の本願(ほんがん)を信じ、心から極楽往生を願って、「南無阿弥陀仏」のお念仏を称える日々を送ることを説く教えです。


ただひたすらに、お念仏を称えることを根本にすることで「専修念仏(せんじゅねんぶつ)」の教えともいわれています。


そこで、阿弥陀仏とは、本願とは、お念仏とは何か、そして極楽浄土とはいったいどんな処なのでしょうか。


先(ま)ず浄土とは、仏(ぶつ・仏陀の略で、真実を覚った人で超人的存在の意、又釈尊を指していう場合もある)が建立した世界のことです。


仏教では、仏は無数にいらっしゃって、それぞれの浄土で人々を教え導いている、と説かれています。 その中で、誰もが生まれることができる処が、極楽と名付けられた阿弥陀仏の浄土なのです。その名の由来は『阿弥陀経(あみだきょう・浄土三部経の一)』に「そこに生きる者には一切の苦しみなく、ただ楽のみある」から……と説かれています。


極楽は西方へ十万億の浄土を超えた彼方にあるといいます。換言すれば、無限の彼方です。しかし、一方で、「阿弥陀仏は、ここを去ること遠からず」とも説かれています。 これは、阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称えれば、死に臨んで極楽に瞬時に生まれさせていただけることが、できるということであります。そして、極楽に生まれることを、「往生(おうじょう・生まれ往くことで死ぬことではありません)」というのです。


『無量寿経(むりょうじゅきょう・浄土三部経の一)』には、阿弥陀仏が覚(さと)りを開き、極楽浄土を建立された由来が詳しく説かれています。


――遠い昔のこと、法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)という修行者がいました。菩薩はすべての人々を救いたいとの願いを起こし、二百十億もの浄土の様(さま)を具(つぶさ)に観察しました。そして、それらの長所と短所を見極め、全ての者を救うためにはどのような浄土がよいのか、思惟(しゆい・考えること)を深め、五劫(こう・極めて長い時間を表す単位、一劫については後述)という途方もなく長い時間をかけ、ついにその願と誓いを四十八の項目にまとめ、修行を重ねて、今から十劫の昔に、その全てを実現 して仏(ぶつ)になられました。


その仏が阿弥陀仏であり、その浄土として築かれたのが極楽であります。つまり、極楽はあらゆる浄土の長所を選んで築かれた所であり、最も優れた浄土であるといえるのです。


阿弥陀仏の「阿弥陀」とはインドの言葉で、無限の寿命を持つもの、即ち無量寿(むりょうじゅ)、又、無限の光をもつもの、即ち無量光(むりょうこう)と言う意味があります。前者をアミターユス後者をアミターバといってこの二つを兼ね備えています。


阿弥陀仏は遥かな過去において仏となり、無限の未来まで救いの手を差し伸べる仏であり、その救いの光は、何にも遮られる事がなく、無限の輝きをもつ仏といえるのであります。


阿弥陀仏がその修行時代にたてた願と誓いを「本願(ほんがん)」といい、四十八項目あることから「弥陀の四十八願」といわれています。そしてその十八番目に「譬え僅か十遍でも念仏を称えたならば、必ず極楽への往生をかなえよう」とあり、これを「念仏往生の願」といい、お念仏の別称として、「本願行」、「本願念仏」などのことばがあるのは、これに由来しています。


南無阿弥陀仏の「南無」とは、阿弥陀仏を心から信じてたよりすがる、ということです。


ですからお念仏は、「阿弥陀仏のはからいにすべてまかせます」と言う意味になります。


よく耳にする「他力本願」と言う言葉がありますが、これは単に他人の力に任(まか)せるということではなく、「阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称え、極楽に生れることを確信する」ことにより、安心(あんじん・仏の教えによって、心の平和を得て動じないこと、又それによって到達した境地のこと)が得られ、この世の中で明るい安らかな毎日を送れるようになるのです。


【註】


一劫 = 極めて長い時間を表す単位で、芥子劫(けしこう)と払石劫(ふっしゃくこう)の二説が代表的に伝わっている。芥子劫は、縦横高さ四十里(約一六〇㎞)の城に芥子粒を満たして、三年ごとに一粒を取り去り、全て取り尽くすに至る時間を一劫という。 払石劫は、四十里四方の岩山を、天人の薄い衣で三年に一度ずつ払拭し、その岩山が摩滅し尽すに至る時間を一劫とする。